2.猛ダッシュのペティアガーラ


 アカデミーの学生寮は、人通りもまばらな周りに何もない静かな場所に、ポツンと一軒 建っていた。しかしだからといって町外れというわけでもなく、道路を三つまたげば商店 街のある大通りにもでられたし、その通りにあるバス停などは寮から一番近い場所に設置 されていた。これはひとえにアカデミーの学生のための配慮であった。
 シッキム・テミの村からならまだしも、ペティアガーラの街から歩いて学校へ行くのは 簡単なことではない。死ぬほどの早起きと、夜遅い帰宅を我慢できれば出来ないことはな いであろうが、もちろんやる者など一人もいなかった。当たり前である。
 ゆえに一部の上級生や地元の学生、馬を買える金持ち学生を除いたその他大勢は、嫌で もバス通学をするはめになるのだった。
 しかしこの東ゴパルダーラ地方、東の辺境、ザ・田舎、に世にも珍しい魔法石で動くバ スがいくらもあるわけがなく(というよりノンビリした人々には必要ではなく)、泣いて も笑っても一台しかなかった。行ってしまったら次はなかなかやっては来ない。
 チャンスは2回。
 始業に間に合うように到着するためには、朝の2回のバスのどちらかに確実に乗ってい ないといけないのである。
 なのでバス停は寮の近くになければならないのだ。
 叩き起こされて飛び出しても、間に合うほどの距離に。
「はーっ、はーっ、や、やたぁっ…やったぁ!!」
 その誰だかの心のこもった配慮と自分自身の全力ダッシュのおかげもあり、フィーは最 短記録で<ペティアガーラ巡回バス停留所 アカデミー学生寮前>へと滑り込んだ。何と 幸いにもバスはまだ来ておらず、そこら中アカデミーの生徒達でごった返している。
 しかしだからといって安心するわけにはいかない。
 ゼエゼエと肩で荒い息をしながら人混みの中を見渡すと、目的の人物はすぐに見つける ことが出来た。
「クゥちゃん、ヘック!!」
 人より頭一つ分高い、ぴょこんと飛び出た黒頭。
 筋肉はしっかり付いているものの細身で長身の最上級生ヘック・ネックと、そのヘック に寄りかかるように立ったまま、起きているのか寝ているのか、目を閉じてユラユラして いる最下級生クゥ・カーヤンは、ペティアガーラのステキな一戸建てに住む武術の師弟で あり、アカデミーの生徒であり、フィーの親友でもあった。
 ばたばたと手を振りながら駆け寄るフィーに、ヘックは「よおっ!」と軽く片手を上げ 笑顔を浮かべる。
「すっげぇ頭だな、フィー。おまえにしては珍しくギリギリセーフだぜ」
 一見目つきが悪く威圧的で凄味があり、何となく恐れられているヘックだが、実際のと ころはただのお人好しのおニイちゃんである。と、フィー達は思っている。そのお人好し のヘックは、自分の胸の高さまでない、くるくる巻き毛を二つに結んだクゥの頭をワシワ シと乱暴になでながら、
「まぁ、昨日は帰ってきた時間が時間だしな。フェイブが魔法で送ってくれなきゃもっと 遅くなってたんだろ?俺も今朝はこいつをここまで引っ張ってくるのに苦労して…」
「………めててくれない!?」
「ぅわっと!…はぁ?何だって??」
 息も切れ切れのフィーに突然ワッシと襟首をつかまれ、問答無用で話を中断させられた ヘックは切れ長の目を白黒させた。視線の端で危うくひっくり返りそうになったクゥが 「むぅ」とようやく目を開ける。
「ふあ。……なんだフィーか。おはよ」
ヘックとクゥ
 大あくび混じりに挨拶するクゥの横で、焦る気持ちをぐっと抑えてヘックの服から手を 離し、大きく3回深呼吸すると、今度こそハッキリとフィーは言葉を口にした。
「バス、とめててくれない!?」
「………ハァ?」
 そしてヘックは今度こそ本当に首を傾げる。
「じゃ、頼んだわよ!」
「あっ、おいちょっと……どこ行くんだよっ、フィー!!」
「なんだなんだ?」
「おいっ!!コラもうバスが来たぞ!!!」
 ヘックの慌てた叫び声を背に、フィーは振り返ることもなくその場を駆け出していた。 肩にしがみついていたマナが、驚いたように腕に力を込める。
(だって…、だって――。今日お弁当、作ってないんだもん―――!!!)
 お弁当のない学校生活。
 そんなものが果たしてあって良いであろうか。
 否、断じて良くない。
 フィーは走った。
 クゥとヘックに心の中で「ゴメン、頼む!」と死ぬほど頭を下げながら、ただひたすら に作ることの出来なかった弁当を求め、走った走った。
 走って走ってたどり着いた先は、通り沿いにあるパン屋「陽気な田舎亭」。


「おう、あんた確かフィーじゃないか。久しぶりだなぁ。そんなに慌てて、どうしたんだ い?」
 看板のとおり「陽気な田舎」者のパン屋の主人は、大きなお腹をぶるぶる震わせながら、 パチパチした苦しげなエプロンで手を拭き拭きやってきた。
「はぁ、はぁ…あの、おじさん、ナッツのパンとライ麦パンと、チーズのパンを二つ、く ださい。大至急で」
 ずらりと部屋いっぱいに並んだ焼きたての香ばしいパン達を見る余裕もなく、駆け込ん でくるなり息も絶え絶えにようやくそれだけ口にする。そんなフィーを見た主人は、大げ さなほどにあんぐりと口を開け、揺れるお腹の上でパッと両手を開き「驚いたポーズ」な ど陽気にやっている。
「大至急」という言葉は、どうやら全く聞こえていないようだ。
「カアさん、カアさん!ああメアリー、ちょっとこっちに来てごらんよ」
「はぁい、何かしら、あなた。お客さんかい?……あらフィーちゃんじゃないの」
 元気ぃ〜?と「陽気な」パン屋のおかみさんが、これまた樽のような体を揺らしながら、 にこにこと愛想良くやってくる。
「あの…」
「メアリー聞いておくれよ。何とこのフィーが、うちでパンを買ってくれるらしいんだよ。 しかもナッツのパンとライ麦パンにチーズパンを二つも!」
 何が「しかも」なのか、よく分からないところを強調しながら、パン屋の主人は大真面 目に「チーズパンを二つ」のところでブイッと太い指を二本突き出す。
「んまぁっ、あのフィーちゃんが!?これはまたどうしたことかしら。珍しいこともある もんだわ、ねぇあなた」
「だろう?珍しいと思うだろう?」
「ええ、本当に。何てまぁ珍しい…」
「あのっ!!!」
 ぜーはーと激しく肩で息をしながら髪を振り乱し、鬼気迫る表情で仁王立ちするフィー に、口をそろえて珍しがっていた陽気な夫婦もさすがに一歩引いた。
「あら嫌だ。どうしたのよそんなコワイ顔して。ねぇ、あなた」
「ああ、本当にコワイ顔だよ。なぁ、おまえ」
「……お・ね・が・い・だ・か・ら」ブチキレそうになるのをなんとか堪えつつ、こめか みに怒りの青筋を浮かべたまま、少女は力強く微笑んだ。
「急いでるの、速くパンちょうだい!ナッツのパンとライ麦パンとチーズパン二つ!!」
「……………………はいよぉ、ナッツパンとライ麦パンとチーズパン二つ」
 ブイッ。
 大きな体をこれ以上ないというほどいっぱいにちじこめ(それでも小山のようではあっ たが)、言葉通り珍獣でも見るかのような目で彼女を見ながら二人はカクカクと何度も頷 いた。
 強盗現場のような、恐怖の光景であった。
「な、ナッツにライ麦、チーズパン……と。おい、メアリー、袋取ってくれないかい」
陽気な田舎亭 「はいはいっ。…えーっと?あら嫌だ。私ったら袋をどこにやったかねぇ」
 二人はぴょんと立ち上がると、どこかビクビクしながら勢いよく動き出す。
 だが、しかし。
 普段慣れ親しんだテンポというのは、そう簡単に変えられるものではないらしい。
 この夫婦は特に長年ノンキを培ってきた強者であり、キビキビした動きはものの5歩か 6歩であっという間にボロがではじめた。
「袋はまぁどこにいったのかしらねぇ。困るわぁ〜」
 とかなんとか言いながら、紙袋を探すおかみさんの大きなお尻が、カウンターの向こう でユラユラしている。主人はというと、木のお盆に乗せた4つのパンをしげしげと眺め、 「ほらっ、やっぱりそうだ!!こっちよりこっちのパンの方が、いっぱいナッツが乗って るじゃないか。フィー、おじさんがこっちと変えといてやるからね。心配しなくても大丈 夫だよ」
 などと、まぶしい笑顔を浮かべている。
 なんという素早い立ち直りであろうか。
 看板に恥じない、見事に陽気な田舎モノであった。
(――ああぁっ)
 フィーはよりによってこの店に来てしまった自分を激しく呪った。
 いや、別にこのご夫婦が嫌いというわけではない。
 むしろこの陽気さやのんきさに、大変お世話になったものである。
 いつだったか、フィーはパン作りに凝りまくっていた時期があった。
 始めは寮の厨房でどっすんばったんパン作りに励んでいたが、自分の乏しい知識では作 れるパンなどほんのわずか。だんだん満足のいかなくなったフィーが、ならばと通いだし たのが、この「陽気な田舎亭」である。彼女は毎日のようにこのパン屋を訪れては、親切 な主人の協力を得て様々な種類のパンの作り方を研究し、体得したのである。
 そう、一度としてパンを買うことなく……。
 ――だって、寮に帰ったら自分で作れるのに。もったいないじゃない。
 フィーリイア・リム・ザクセン(女)は実はお嬢様育ちであるのに、しかも末っ子で何 不自由なく育てられたというのに、ど田舎暮らしのせいか、それとも生来の性格がそうさ せるのか、セコくて、おまけにケチであった。
 そんな極めて図々しい少女を、いつも優しく暖かく、時には厳しく教えてくれたパン屋 の夫妻。
 陽気で朗らかでノンキで、ちょっぴりドジで愛嬌もある。そんな愛すべきカールとメア リーに……。
 その陽気さや朗らかさにこんなにイライラさせられる日が来ようとは。
 腐った卵のようにドロンとした遠い目で、ついつい過ぎ去った日々を回想していたフィ ーは、婦人の「あった――!!」という明るいソプラノの声ではっと我に返った。
「そ、そうだ。こんなところでぼーっとしてる場合じゃ全然なかった!おばさんっ、お代 いくら!?」
「はいはい、ちょっとお待ちなさいな…」
 パン屋の主人に茶色の紙袋を渡したパン屋のおかみさんは、太い指で器用に計算器の石 をはじくと、卵の黄身を塗って焼いたパンのようにツヤツヤした頬を持ち上げ、にっこり と微笑んだ。
「38ロワンだよ」
「えっと、さんじゅう…はち、と。…はいっ、合ってる?」
「ああ、ばっちりだね。まいどぉっ」
 なんの悩みもなさそうなおかみさんの笑顔に、ロワン硬貨を渡し終え、フィーはほうっ と緊張を解く。
 ああ、もう大丈夫。
 大通り沿いにあるこの店の前を、バスはまだ通っていない。
 きっとクゥちゃんとヘックが、苦労して運転手さんを説得してくれているのだろう。
 間に合った。あたし、間に合ったんだわっ!!!
 感極まった表情でくるりと振り向き、窓からのキラキラした朝日を後光のように背に しょった丸い影のご主人に駆け寄ると、その手からさながら戴冠式の王冠のように、四つ のパン入り紙袋を受け取ろうとした、まさにその時!!
「ああっ、フィーじゃない!!」
 神聖な雰囲気をぶちこわす、すっとんきょうな驚愕の声に、フィーは思わず腕を止め、 ギシギシと首だけそちらに向かう。
「まっ……マギー!!?」
 そこにいたのはまさしくマギー・ワークス。この陽気なパン屋の夫婦の18になる一人 娘である。
 ダルマのような夫妻から生まれたとはとても思えない、すっきりスラリとスレンダーな マギーは、フィーの顔を見るなりやたらと嬉しそうにパン焼きがまの向こうの居住スペー スから駆け寄ってきた。
 突如、フィーの背中に言いようのない緊張が走る。
 ………ヤバイ。
 直感が、そう告げた。
「フィー、久しぶりじゃない。私ずっとあんたに会いたかったのよ」
「あ…あははは、そ〜おぉっ?嬉しいわっ、じゃっ、あたしは急ぐんでこれで……」
 言い終わらないうちに、にこにこしていたご主人の腕の中から強引にパンの袋をむしり とると、魔術師見習いの少女は足早にその場を後に………できなかった。
「ちょっ、ちょっとぉ。何すんのマギーってば、離してよぉー!」
 ワッシと尻尾をつかまれたマナがキイキイ悲鳴を上げながら、必死にフィーの肩にしが みつく。
「少しくらいいいじゃない!私どうしてもフィーに頼みたいことがあるのっ」
「なにぃ〜、それが人にものを頼む態度なわけ!?離してってば、マナが痛がってるで しょー!!」
「それを言うならあんたこそ止まりなさいよ!」
 もはや意地なのかヤケなのか、どちらも全く退こうとしない。
 哀れな(高貴なはずの)ドラゴンの子を綱がわりに、ジリジリと力を込める2人とそれ から一匹はこの上なく真剣だったが、見ている分には滑稽であった。
「まあまあ、そのへんで止めときな2人とも。マナがかわいそうだよ」
 さすがにみかねて主人が仲裁に入る。
「そうよぉ」
 と、それでも出口へ向かおうとするフィーを力ずくで店の方へ押し返すと、 「何が原因か知らないけど、奥でゆっくり話し合いなさい。お母さんがお茶入れてあげる から」
 困った笑顔で全くとんちんかんな溜息をもらす、馬鹿力なおかみさん。
「ちょっ…だからあたしは……」
「そうだよ。頼みがあるなんて、何か困ったことでもあるのかいマギー?フィーだけじゃ なくてお父さんにも話してごらんよ」
「お母さんも聴きたいわぁ」
「な、なによっ!お父さんとお母さんには関係ないでしょ!?私はフィーに話があるんだ から!」
「まああっ、この子は関係ナイだなんて親に向かって、ねぇあなた」
「そうだよこんなに心配しているのにヒドいじゃないか、なぁおまえ」
「だあああぁああぁぁっ!!!」
 突然に、カミナリのような雄叫びが響き渡ったその直後、ダンゴのようにもみあってい たパン屋の一家3人そろってゴロゴロと床に転がっていた。一瞬何が起こったのか分から ず、ポカンと反射的に顔を上げ―――そして顔を上げたことを後悔せざるをえなかった。
 鬼気迫る、どころかその表情はまさに悪鬼の形相である。
 死んだ魚のような目でダラリとしたマナを肩に引っ掛けたまま、火を噴く火山を背に、 ついにぶち切れた怒れる少女フィーリイアが、記憶にある罵詈雑言を吐きださんと大きく 息を吸い込んだその瞬間―――。
 ――ゴオオォォオォオオオッ。
 聞こえてはいけない音がきこえてしまった。
 ハッとして、怒っていたことも忘れ、真っ白な頭で慌ててドアを開いたときにはもう遅 い。
 ゴオオォォオォオオオッ…………。
 キラキラと光を反射させる銀色の車体のバスは、空を切る大きな音を立てながら底に着 いた赤い魔法石の残像を残し、あっという間に目の前を駆け抜けていった。
 まさしくあっという間の出来事であった。
 風にぱらぱらと舞う己の髪もそのままに、茫然と、ただひたすらに茫然と、その軌跡を 見つめるフィーの背中に、パン屋の主人カール・ワークスののんきな声が降ってくる。
「おやぁ?フィー、あんたあのバスに乗ってなくて良かったのかね?」
 パンの袋が地に落ちる音が虚しく響き、フィーはガックリと両手をついた。
「はは…もう、いいんです。パンはゆっくりでもいいし、頼みでも喧嘩の原因でも家庭の 問題でもなんでも聞きます。………時間、あるから」
「あら、…そうなのかい?」
 パン屋の陽気なおかみさんは、鈴を鳴らすような声で軽やかに笑った。
「それならそうと最初から言えばよかったのに。まったく、変なコだねぇ」
 ホロリと透明な雫がこぼれて消えた。
「すまんな、フィー。限界だ」
 走り去るバスの中で、クゥがぽっつりつぶやいたとか、つぶやかなかったとか。








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