5.不思議な木の実と夜の街(前)


 あれは今からちょうど一月ほど前の、綺麗な三日月の夜だったわ。
 その日は…どうしてだったかしら、パン屋のほうがとても忙しくて、お父さんもお母さんも私も朝からずっと動きっぱなしだった。疲れてたからかしらね、目が冴えちゃって夜遅くになっても全然眠れなくて、私は悲しい気持ちになりながら泣く泣く深夜食を食べていたの。

「しんやしょく!?なにその深夜食って。そんなのまで食べてるなんて、さっきは言ってなかったじゃない」
「う、うるさいわね。ごくまれに、そういうものが食べたくなる時もあるってことよ。…んもう!そんなどうでもいいところにセコく突っ込まないで、黙って聞いてちょうだいっ!!」
 ジロリと睨まれ、フィーはおとなしく口をつぐむ。

 ごっほん。それで、なんだったかしら……そうそう、深夜食だったわね。
 この部屋でちょうど今のフィーみたいに、ベッドに座って売れ残りのパンを食べてたの。そんなふうにして一人でパンを食べてると、将来のことを思えてさすがの私もなんだか惨めで泣きたくなってきたわ。…ううん、もう泣いていたのかも。そんなとき、突然ノックする音が聞こえたの。どこって、私の部屋のその窓を、よ。私はびっくりして飛び上がったわ。
『!!!……だ、誰!!?』
『やあ、こんばんは』
 返ってきたのは、拍子抜けするほどのんきな男の声だった。
『なんなのよこんな夜中に。誰だか知らないけど非常識な人ね』
 18の乙女が打ちひしがれてるってときに間延びした声で「こんばんは」はないでしょう!?ムカッときたもんだから、私は思いっ切り尖った声でそう言ってやったのよ。
 そうすると、これがまた、いけしゃあしゃあとこう言うわけ。
『おっと、こりゃあ失敬!…でもなあ、こんなおそくに女性の泣き声が聞こえたもんだから、何かあるんじゃないかって気になってね』
『なっ!!…うそ、別に私、表に聞こえるような声で泣いてなんか……』
『じゃ、やっぱり泣いてたんだね?』
『…………っ!!』
 私が言葉に詰まってると、そいつは「やっぱり」と得意気に、少し笑ってたみたいだった。
『今みたいなのはね、耳で聞くんじゃなくってさ、心で聴いたんだぜ』
 ごく普通の、当たり前のことみたいに、さらりとそんな大ウソついたりしてね。
『そういやあ自己紹介がまだだったかな。おいら名前はペリシテ・パパル。この街のもんじゃなくってな、旅する一商人だ。自分で言うのも何だが国一番の物売りだよ。扱えない商品なんて一つもないね。これちょっと自慢なんだけどさ…』
 ……あきれた、国一番の商人ですって?国一番の商人がこんな田舎のパン屋の、私の部屋の外に普通来るかしら?……いいえ、絶対来ないわね。
 私がそんなふうにあきれはててるのも知らないで、延々自分の商売について話してたそいつは、とうとう満足したのか一呼吸置くとゴホンと大きく咳払いしたの。
『………さて、こんな感じでどうかな。そろそろこの木戸を開けてもらえるかい、お嬢さん』
 コンコンと木の鎧戸を叩きながら随分ととぼけた口調で…でも顔は笑ってたに違いないわね。
『……………』
 私はどうしようか少し迷ったんだけど、結局開けてみることにしたわ。
 だって、別に鍵は掛けてなかったんだもの。押し入り強盗みたいな怪しい人なら無理矢理こじ開ければすむことだし、わざわざそうやって尋ねてくるなんて、この男もしかしたら実は意外と紳士なのかもって、思ったのよ。
 ……なんて、本当のところはね、ただ顔が見てみたかっただけなんだけど。
 酔っぱらってるふうでもないのに、真夜中に窓の外で自分のことを“国一番”だとか寝ぼけたこと言うヤツが、どんな顔してるのかしらって。強盗だったらどうしようって恐怖なんてそんなものでしょ?好奇心にあっさり負けちゃったわけ。だって私、生まれてこのかた、この街に強盗が現れたなんて噂聞いたことないもの。
 ぎゅっと目をつぶって「エイヤッ」と気合一発勢いよく鎧戸を開けると、涼やかな露の香りのする空気と一緒に「おっと」って、意外なほど近くから明るいテノールの声が飛び込んできたわ。
 ハッとして思わず開いた目に一番に映ったのは、夜目にも鮮やかな紫色の瞳だった。
『やあ、改めまして……こんばんは、お嬢さん』
 鎧戸を避けたせいかしら、みっともなく頭に引っかかっていた帽子を取ると胸に押し当てて、紫水晶の両眼を細めながらそいつはまるでお伽話の騎士みたいに、馬鹿丁寧に私に向かって頭を下げたの。
 淡い月の光にさらされた男の短い髪は、透けるようなプラチナブロンド。びっくりしたことに、どう見てもそいつは10代の終わりくらいの……私と変わらない年に見えたわ。
『………………』
 さすがに声が出なかったわね。
 どうしてって、あんまりあきれたからよ。
 もちろん想像よりずっと若かったっていうのもあるけど、それよりも何よりもその男の格好ときたら!
 きちんと深くにかぶりなおした帽子は、それこそお伽話の魔女みたいな、先のひしゃげたとんがり帽子でしょ。ぶかぶかの上着にくっついたやたらとでかいポケットはぱんぱんに膨らんでるし、ズボンの裾はちょうちんみたいで、靴の先はくるんと丸くなってるの。おまけに背中にしょってる荷物入れがまた!木と竹でできた縦に長い四角の入れ物なんだけど、カラカラと妙な音がするもんだから何かと思ったらヤカンなのよ!!脇にヤカンだの鍋だのが縛り付けてあるわけ。
 動くたびにカランと音を立てる不格好な影にめまいを覚えながらも、私はようやく一言、絞り出したわ。
『……ウソよ』
『えっ!?なんか言った?』
『ウ・ソ・よっ!!』大きく息を吸い、力を込めてもう一回。
『なにが旅の商人よっ。あんたなんかどう見ても旅芸人じゃないのこの大ウソつき―――!!』
『なっ……』
 好奇心旺盛な表情でにこにこしていたそいつ――ええと、名前何だったかしら…とにかくその自称行商人は、あたしの言葉に一瞬ぽかんと大口を開けたんだけど、すぐに憤慨したように眉を寄せて腕を組んだわ。
『だーれが旅芸人だよ、まったく失礼なお嬢さんだなあ。ほら、見てみ。売り物だってこうしてちゃんと持ってるんだぜ』
 ほれ、とそいつがわざわざ荷物入れがよく見えるように体を傾けてくれると、カランって、間の抜けた音が夜の街にムナしく響いた。
 これは勝ったわ、とこのとき私は思ったわね。え?何が「勝ち」なのかって?
 ほほほ、頭よ、頭。口で言い負かした方が頭が切れる人間だって決まってるものね。
『はーん、バカ言ってんじゃないわよ。あんた確か自分に扱えない商品は無いって言ってなかったかしら。そんな小さな荷物入れにいったいどれほどの物が入るっていうのよ。国中の人が欲しがるありとあらゆる物を持ってるんじゃないわけ?!王国一の商人が聞いて呆れるわよ』
 まったく、口ほどにもないヤツだわ。多少大きいとはいえ、背負える程度の荷しか持ってないくせに、よくまあ図々しく大きな口たたけるものよね。一息でまくし立てた私が勝ち誇った顔で窓から見下ろしてると、俯き加減で肩を震わせているもんだから、してやったり、とか思ってたんだけど、次の瞬間そいつ盛大に噴き出していたわ。
『ぶっ…くくッ、あははははは!…あ、あんた、すんげー気ぃ強いなぁ』
『なっ……なんですってぇ!!んなの、余計なお世話――』
『けど――』
 さほど大きいという印象も受けないのに、それでいてよく通る声で私の言葉を遮ると、怪しい物売りはいたずらを思いついた子供みたいな今にも笑い出しそうな目で、ひるむ私を真っ直ぐに見つめてきたのよ。 『あんたの理屈じゃあ、まだまだだな。だって、そのとき目の前にいるお客さんが欲しい物がこの荷の中にきちんと入っていたら、どんなに荷が小さくても、それで十分だろう?』
『なっ、なに言ってんのよ。そんな都合よくいくわけが……』
『ない?……さあ、それはどうかな、お客さん?』
 伸ばした手はまるで魔法のように…気のせいだったのかしら、月の光を映したような金色の跡を半円の形に引いて、コトリ、と窓の縁におさまったわ。一瞬のことに言葉をなくしてパチパチ瞬きしてると、帽子に隠れた見えない表情と聞き慣れない発音で、
『ムゥースウリィイ』
 と呪文のようにそいつは言ったの。
『…え?』
 ききかえすと大きな口でにっと笑ったわ。
『ムースリの木の実だ。どうだい?安くしとくよ、お客さん』
 もったいぶって窓枠から引いた細くて長い手の下から現れたのは、鮮やかな色の木の実らしきものが一つ。
 ちょこんと、何かの供え物といった具合に窓枠に鎮座している木の実を、かかしのように立ちつくしたままぼんやり見つめていると、そんな私の顔を不思議そうに、物売りがひょいとのぞき込んできたわ。
『なに?気に入った??』
 ゆっくりと視線を木の実から物売りへと移したら、色硝子のような紫の瞳と目があった。そいつ、どう見ても10代の後半かそれ以上なのに、笑うと10代前半みたいに幼くなるのよね。瞬間、私がにっこりと極上の笑みを浮かべると、彼はパッと花が咲くように、子供の笑顔を見せたわ。なんともノンキにね。
『え、と、じゃあ……』
『買わないわよ』
『……………』
『……………』
 空気が凍ったわ。
 お互いに相変わらず笑顔だったけど、確実にあれは凍ったわね。
『なっ…』
『誰が“お客さん”なのよ。あんたみたいな深夜に窓の向こうから国一番の商人だとか言う旅芸人みたいなこの上なく怪しい商人から、こんな得体の知れない毒々しい木の実を買うっていう人がどこにいるっていうの?普通に考えて買う方がおかしいじゃない。…でしょう!?』
 どう考えても絶対そうよ。当然だわ。
 私に一気にまくし立てられて、何かのどに詰まらせたみたいにキテレツな顔をしていたそいつも、それにはさすがに納得したみたい(納得するのもどうかと思うんだけど)。『そりゃあそうかもしれないけどさあ』とか、ふてくされてブツブツ言ってたんだけど、ある時ふと私を見上げて、またあのいたずら小僧みたいな瞳でこんなふうに言うわけ。
『だけど、いいのかなぁ?そうさ、お嬢さんの言うとおり、ムースリがどんな木の実かもまだ聞いちゃいないのに、“買わない”なんてハッキリ言っちゃってさ。後悔するんじゃないか〜い』
『んま〜〜〜っ!何なのよ勿体ぶっちゃって偉そうに!実は喋りたいくせに、それなら男らしくパキッと言ったらどうなのっ』
 べーんと力いっぱい窓枠をはたいて怒鳴る私にひるむ様子もなく、物売りは余裕たっぷりに私を一瞥しただけだったわ。そして、ぷいとそっぽを向いて、とぼけたようにポッツリ呟いた一言はよりにもよって――――。
『やせ薬』
『………………なっ』
 ―――なんですってええぇえええぇぇえぇっ!!!!
『固い殻を除いて中の白い実を食べる。効果は食欲の低下。人それぞれだけど大体一週間はもつかな。変な副作用は頭痛も吐き気もいっさいナシ。……どうだい、最高だろ?もちろん、やせたい人にしか勧められないんだけど…』
『………じゃなくてっ!!』
 飛び跳ねる心臓を両手で押さえ、ホカホカするくらい真っ赤にした顔のまま叫ぶようにそう言う私に、物売りはキョトンと首を傾げた。
『なんだよ?』
『なんで私にやせぐ……その、ムースリの木の実だって思ったわけ!?だっ、だって私別にその、ふ、太ったりしてないでしょ?!』
 私の声がひっくり返っていたのは動揺していたからじゃないのよ。ちょっと喉の調子がおかしかっただけ。でも、そんなことまったく気にした様子も見せずに、ああ、と物売りは納得したように静かに頷いたわ。 『ご心配なく、あんたは全然太っちゃいないよ、お嬢さん。ただ、…さっきも言ったろ?おいらは心で、あんたの声を聴いたんだって』
 胸を押さえたままの私の手を人差し指でコンコンとつつくと、柔らかく笑うそいつの瞳に、私は思わず見とれちゃってた。
 そういえば、窓を開けたときから漂うかすかな露の香りが、雨のせいじゃないことに気付いたのは、そのときだったかしら。
 相変わらず晴れ渡った、濃い藍色の空のてっぺんに浮かぶ三日月が冴え冴えと澄んでいて、輝く音さえ聞こえそうな、…あの日の夜の街は、なんだか静かで奇妙で、夢みたいだったのを覚えてる。








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